『 Friend 』

Special




洞爺湖の空は透き通るような快晴だった。
――第5回 人力飛行機選手権 in 洞爺湖
大きな横断幕がプラットホームに掲げられている。
第4回よりも大きく、第3回よりもずいぶん大きい。第2回のプラットホームなんてプラットホームの足元にあるボートの船着場みたいなものだったのに。
亜希子はトラックのエンジンを切った。
「……第5回、か」
いつの間にか遠くに過ぎ去ってしまったのだろうか。
昨日まであったはずの雲は、今日の空には浮いていない。
第1回の畑の笑顔を思い出すと、胸の奥が苦しくなる。
アイツは、今、どこで何をしているんだろう。
「先生、先生」
振り返ると、慶太がノートを片手に立っていた。
「……慶太くん」
「今、本部の人に聞いてきたんですけど、あと15分くらいでトラックを所定の位置につけて欲しいって。まだ、3つくらい前の人たちが機体を降ろす準備してました」
慶太が亜希子の顔を覗き込む。
「先生? 疲れてない?」
もし疲れているのだとしたらお互い様かもしれない。
慶太くんの表情も、少しだけ、眼鏡の奥の優しい目に疲れがにじんでいる。
亜希子は笑顔をつくって言った。
「疲れてるわよ。充分。だけど、今日の日のために、みんなでがんばってきたんだから」
慶太も笑顔になった。
「今日、なんですよね」
ふたりは頷いた。
遠くで音だけの花火が2発、鳴った。


   ***


「空、やっぱり、なんか緊張してきたよ」
磯野駆がプラットホームを見つめている。
森下空が隣に並んだ。洞爺湖から吹き寄せてくる向かい風が柔らかかった。
「だって、ねぇ、」
空の声に呼ばれるようにして、心配そうな駆が空の瞳を見つめた。
「今日が今日だもんね」
空はにっこりと笑顔をつくる。
4年生になった空の、最後のチャレンジ。ふたりは互いを励ますように、手を握った。
その瞬間、プラットホームに近い場所で、音だけの花火が2発、鳴った。
いよいよ大会が幕をあげる。
「おぉ、空か?ひさしぶりじゃのぉ」
振り返ると、そこに見覚えのある男性が笑顔をつくった。――畑俊彦。
「え?あ!ハタケ先輩!」
その言葉に隣の駆も驚いている。
「元気にしちょったか?」
「はい! 今日、見に来てたんですか?」
空の問いに、照れたみたいに頭をかきながら、「久しぶりに、アレよぉ、日本に帰ってきたけぇのぉ。」と言った。
方言の響きがちょっとだけ懐かしかった。
「あぁ、ほうよ、今日、飛ぶらしいのぉ、しかも二人乗りじゃぁゆうて聞いたがホンマか?」
空は頷いた。自分たちのことを、気にかけていてくれるのが素直にうれしかった。
「お、もしかして、あれか?そら、彼氏か?」
空は頷いた。
「うん!カレシ!」
自信を持ってそう言える。パイロットとして、共有してきた時間は誰にも負けない。畑先輩がうれしそうに微笑む。
「あ、かけるくん、この人が畑先輩」
「は、はじめまして、磯野カケルです!よろしくお願いします!」
背筋を伸ばして、丁寧に頭を下げた。
初めて練習に参加した日の朝も、新入生歓迎会のときもこんな感じ。久しぶりに見る、緊張しまくってガチガチな駆。
畑は「そおかぁ。がんばれよぉ」と駆の肩を力強く叩いた。
空は尋ねた。
「先生には会ったの?」
畑は気まずそうに、はぐらかす。
「あっちにいるよ」
空は指を差した。トラックが止まっているからわかるはずだ。
畑は少し考えて、「そうじゃのぉ、あとで顔出そうかのぉ。ほいじゃあ、がんばれよ!期待しとるで!」と立ち去った。
駆が呼び止める。
「畑先輩!」
畑が振り返る。
「今日、大会のあとに、打ち上げがあるんで、ぜひ来てください!」
「ん〜、ほいじゃあ、考えとくわ〜。」
畑は左手を上げて答えた。


   ***


洞爺湖のすぐ傍にそのホテルはあった。
森下空のお父さんが「会場は押さえてあります、終わったらそこでみんなでカレーでも」なんて軽い口調で言っていたので、油断した。
洞爺湖で一番高級なリゾートホテル。
20名弱の学生と、顧問の私。そして、40名を越える生徒たちの保護者の父母、親族ら。
ホテルのスタッフに誘導されながら、赤い絨毯の廊下を歩いていく。
森下の父親を見つけ、亜希子は頭を下げた。
「すみません、こんなに立派な場所を……」
森下は笑顔で言った。
「私も、迷ったのですが、うちの支配人がどうしてもここで、と言ってくれまして」
森下が指差した先に、
――桜の間―― 道南大学飛行機サークル 祝賀会
達筆な文字でそう書いてあった。
「紅葉もいいし、紫陽花もいい。だけど、今日という日には、桜という名のついた会場が一番いいんじゃないか?なんて言うもんでね。
 まぁ、昨年同様に、50人は軽く越えると思っていましたので、逆にここくらいの宴会場でちょうどよかったかもしれない」
森下がにっこり笑って続ける。
「本当は、いつものガレージっていうのも考えました。私にとっても思い出の場所なので。
 だから、と言っては何ですが、これもうちの副社長からの提案でね、『カレーにしたらどうか?』なんていうので、
 祝勝会にふさわしいかどうかわかりませんが、うちの頼れる料理長の特製カレーになったみたいです」
亜希子は「いいんですか?」と尋ねると、
森下は「うちのスタッフからの『差し入れ』だそうですよ、気にしないで。うちの従業員も、みんな応援してくれてるんです」と微笑んだ。

みんなが『打ち上げ』と呼んでいた会は、『祝賀会』という正式名称に代わっていた。
慶太が部員を代表して司会進行役を買って出た。無線のマイクを持って、テレビの番組みたいに上手に進めている。
もちろん、今までの慶太なら、ひっそりといつの間にか席に座っていたのだろうけど、もうすでに、彼はひとつ成長したのかもしれない。
慶太の合図で4年生の工藤くんが挨拶に呼ばれる。
学生は全員顔見知りでも、その後ろに席を並べる保護者の面々の中には、見慣れない顔もある。
だけど、改めて、こうしてサークルの活動を応援してくれている人の多さに感動すら覚える。
祝賀会で、仲間に見守られて、4年生がサークルを卒業していく。
初期のメンバーで戦える最後の夏に、彼らは目標を達成した。
洞爺湖の向こう岸まで。と言っていた彼らは、大会制限記録の5キロ往復を達成した。
新しい目標を立てて、今年、新たなチャレンジをした彼らは、すばらしい結果を残して、このサークルをあとにする。
工藤くんの挨拶に会場から大きくあたたかい拍手が送られる。
続いて、空が慶太に呼ばれる。
「続きましてー、えっと、空部長! 前、出てきてください。」
促されて、みんなの前に立つ。
慶太にマイクを渡されて、ひとつ丁寧に頭を下げた。
「えっと、今日は本当にすばらしい日になりました。
 目標を達成するなんて、正直思ってなかったんですけど、深夜テンションのミーティングで、自分で言っちゃったんで、アレですけど。
 だけど、その大きすぎる目標に対して、みんなが本当に一丸になって、がんばって努力して、がんばって工夫して、そういうこと全部があったからこその結果だと思います。
 ゴールの青いフラッグが見えたとき、こいでたふたりは、泣きながらだったんですけど。
 ちゃんと、ちゃんと帰って来れました。」
その言葉に保護者から仲間から、そして、ホテルのスタッフ数人も拍手を送った。
空はその拍手を笑顔で胸に刻みつける。
「えっと、私のわがままにつき合わせてごめんなさい。
 私のわがままに、だけど、そこに、楽しみっていうか、希望っていうか、
 大学生活のすべてだー!なんてカケルは言ってましたけど、
 そういう、ステキで前向きな思いで参加してくれてことが、とても嬉しいです。
 4年間、部長をやらせていただきました。
 部長っていうか言いだしっぺなんで、しょーがないんですけど。
 頼りないこんな私を、たくさんたくさんたすけてくださったこと、感謝しています。
 部員のみなさん、ありがとうございました。
 えっと、鈴木先生、練習場所とか、トラックとか、もう数え切れないくらい迷惑かけてごめんなさい。
 論文だって講義だってあるのに、ホントごめんなさい。
 先生がいてくれたから、あきらめずに今日をちゃんと迎えられました。ありがとうございました。
 えー、最後になりましたが、保護者のみなさま、あたたかく見守ってくださってありがとうございました。
 この2ヶ月、まともに家に帰った人が何人いたかわかりませんけど、心配をかけてしまうばっかりで、本当にごめんなさい。
 暑い中の応援も本当にありがとうございました。
 えっと、今日を最後に4年生の私たちは引退します。
 これからも、私のかわいい後輩たちのわがままを、どうかあたたかく見守ってあげてください。
 よろしくお願いします。4年間、本当に、ありがとうございました。」
4年生の最後の夏を終えて、なんだか、すごく大人になったみたい。森下空ちゃんと、工藤純一くん。そのふたりの充実した表情。
そして、それを眩しそうに見つめる後輩の学生たち。
あのときのアイツと、同い年のそらちゃんと、工藤くん。
4年生になったこどもたちが、だけど、ちゃんと成長している。
なんとなく、4年前のあの頃を思い出した。
亜希子は、自分だけが変わっていないような気がして、少し、おいてけぼりな気分になっていた。
洞爺湖の、第2回の大会が終わった静かな湖を真直ぐに見ながら、アイツが言った言葉を思い出していた。


   ***


「出逢えて、よかったぁ思うで」
畑は大きく深呼吸した。
亜希子は尋ねる。
「飛行機?それとも、この大会?」
「ん〜、ぜんぶ。」
畑は嬉しそうに言う。
「それと、あきこも」
畑は亜希子のほうを見ずに、洞爺湖を見つめたまま言った。
「あーこがおらんかったら、ここに立てんかった」
「そう思う?」
畑は頷く。
亜希子は言った。
「アタシはそうは思わない。どう転んでも、あんたはあんたで、ずっとアンタだから。
 だから、アタシがいてもいなくても、ハタケって男はきっとここに立ってる。
 自分を過小評価しすぎよ。自己評価低すぎ」
ふと目をやった畑の横顔が、めずらしくマジメなままだった。
「それは……、同感」
「自覚あるんだ?」
「自覚?あー、そうじゃなくて、あーこも、自己評価低すぎじゃあ思うけどのぉ」
畑が亜希子を見つめる。どうしようもなく、マジメに。いつになく、鋭い視線で。どうしてだろう、いつもはただ笑ってるだけの男なのに。
畑が呟くように言った。
「俺にとって、北海道で過ごした、この6年間は、」
「途中2年間もいなかったくせに」
「その2年も含めて、6年。正確には今日の時点で3年と半分」
「俺には、ずっと、あーこがいたんだ」
「いただけよ」
「大学院入って、先生になれるくらい認められて。それでもまだ? 充分じゃと思うけど?」
「べつに」
畑は柔らかく微笑んで言った。
「ありがと」
「やめてよ、きもちわるい」
どうして素直に『一緒に居られてよかったわ』なんて言葉のひとつもでてきてくれないのだろう。
畑は大きく背伸びした。
「こういう時しか、言うタイミングなかろ?高いとっから飛び込んで、ちょっとハイになっとる時しか、よう言われんわ」
少しおかしくなった。年下のこの男にも、そういう緊張する瞬間があるのだ。
もしかしたら、アタシたちは似たもの同士なのかもしれない。
「あー、そゆこと。恥ずかし」
亜希子が茶化すと、一瞬マジメに、無言だった。
「なぁ、あーこ?」
「なに?」
静かに波の音がふたりを包み込んでいく。
「……俺――」
畑が何かを言おうとした瞬間、遠くから空が走って戻ってきた。
「センセー、せんぱーい」
畑は、真面目な顔して洞爺湖を見ていた。大会を終えて、波の音も少し、静かになって。
その夕暮れのオレンジ色に染まった洞爺湖を真直ぐに見つめたままで、何かを言おうとして、けれど、何も言わなかった。
空ちゃんがいろいろ両手に抱えて走ってくると、畑は優しいお兄ちゃんに戻った。
「運営の人から、もらった。参加賞。タオルと、どこのかな?これ?もらった、飛行機の破片。ちっちゃいけど、どうぞって。」
空ちゃんは嬉しそうに畑を見上げる。
「おお、どこじゃろ?あれかの?ハンドルの間のこの、ここ、T字になっとった、ここらへんのここ」
「えー、違いますよ、羽のどっちかの根元に近いところですって」
「そっちかぁ、そっちっぽいな。亜希子先生はどう思われますでしょーか?」
「あれじゃない、尻尾の羽の支えの下の部分。
亜希子の分析に、ふたりそろって「あ〜」と納得した。
「ステキな参加賞になったじゃない」
「そうじゃのぉ」
「あ、あと、お茶。はい、冷えてるからどうぞって。3つもらった。はい、せんせー」
「ありがと」
「はい、せんぱいのはこっち、さっき落としちゃったから」
「落としちゃったのが俺の?」
「大丈夫ですよ、賞味期限は切れませんから」
そう言って、畑も空ちゃんも笑っていた。
少しだけ、空ちゃんがうらやましくなった。
妹を思うお兄ちゃんみたいに、畑は空ちゃんに優しい。
一年生の空ちゃんは、まっすぐ純粋な目でハタケを見上げる。
この男は気付いているんだろうか。
空ちゃんが、憧れか、恋心か、その純真無垢で不安定な心の奥に秘めた、そんな女の子の気持ちを。
「空、ありがとな」
「ううん。私はなにもできませんでした」
「いや、何いってんの、充分、充分。わしにとっちゃぁ、今年の夏は、人生最高の夏よ。ありがとな」
「はい。私も、楽しかったです」
「よかった。」
ハタケが空の頭を撫でる。ひとつひとつ、感謝を伝えて、ひとつひとつ、頭を撫でる。
「あ、そうじゃ、なぁ、センセーさま」
「なに?何かお願いごと?」
「写真、撮ってくれんか?海をバックに、参加賞持って立つけぇ」
「じゃあ、空ちゃん隣に立って」
「いいんですか」
「俺ひとりーゆうてそりゃあないじゃろ」
「それも撮ってあげるから、安心して。はい、そこ立って、空ちゃんはタオル持ってようか?」
「あ、はい!」
「ふたりでお茶も、持とう、お茶も」
「はい!」
「とるよーとるよー」
デジタルカメラのちいさな画面のなかで、ふたりはニッコリ笑っていた。
ふたりとも今日を過ごした大切な記念品を、ふたりとも両手に持って。
シャッターの音が何度か鳴る。
その度に持っているものを交換しながら、表情をころころ変えながら、とにかくふたりは笑顔だった。
達成感、満足感、充実感。
たった30センチのフライトに、後悔なんて微塵もない。そんな笑顔だった。
数枚撮影すると、空ちゃんが亜希子に言った。
「じゃあ、次、私とります!センセー入って、入って」
「じゃあ、大人っぽくしようか?」
「ちょっと、なにやってんのよ」
「あー、いい感じ!センセー照れてないで!」
「照れてなんかないわよ」
「ハタケ先輩もっとぎゅっとしないと! とりますよー」
「こんな感じ?」
「あー、いいですね!オットナー」
やっぱり、わかっているのか、わかっていないのか。
畑はおどけながら、冗談交じりのいつもの調子で、亜希子の肩に手を回す。
空ちゃんに聞こえないように、あの時、畑は言った。
まだ、大学生のクセに。
まだ、コドモのクセに。
まるで、オトナみたいなことを、あの時、畑は亜希子の耳元で言った。
「なぁ、あこ?」
「なに?」
「いつか、結婚してくれ」
「ちょっと、何言ってんのよ、バカ」
空ちゃんに聞こえない大きさの呟きで、ハタケは亜希子に言った。
「俺、一人前んなったら、あこ、迎えに来るけぇ」
バカみたいな男の、バカみたいで気まぐれな約束。
約束でもないか。アタシは何にも返事して無い。
守ってね。とか、そういう女の子っぽいこともいえなかった。カワイクナイ女。なのに、畑は、亜希子にあんなことを言った。
約束なんて言葉が、一番嫌いなアイツが。


   ***


祝賀会は慶太の司会で順調に進んでいく。
慶太が亜希子に目をやって、言った。
「僕からは、このくらいにさせていただいて、えっと、鈴木先生、お願いします。鈴木先生、鈴木先生、」
「あ、はい。私?」
「顧問ですから、なにか言ってくださいよ」
スピーカー越しの慶太の声。会場の拍手とあいまって、妙な緊張感。
「あーごめんね、どうしよう。」
慶太に立ち位置を教えてもらいながら、マイクを受け取った。
「えーっと、顧問をつとめさせていただいております、スズキです。
 えーっと、どうしよう、何も考えてきてません、こういうの、慣れてませんので。
 すみません。
 えっと、保護者会のみなさま、ありがとうございました。
 顧問として力不足だったもので、ご迷惑ばかりをおかけしてしまいました。
 けれど、今日までこどもたちが精一杯がんばることができたのは、
 保護者のみなさまのご理解と、ご協力があったからこそだと思っております」
 あらためて、お礼申し上げます、本当にありがとうございます。
 サークルのメンバーのみんな、おめでとう。
 規定距離の往復、5キロの長い道のり。
 5回目の大会で成し遂げた記録は大きすぎる記録です。
 奇跡のような出来事だけど、改めて、みんなの顔をこうやってみていると、
 達成できて当然じゃないの、あたりまえじゃない。って自信満々に言いたくなります。
 成し遂げたあとだからかもしれないけど、
 みんなががんばってきたこの長い道のりを全部見てきたからこそ、
 言ってしまいたくなることなのかもしれません。
 第3回目の大会に、サークルとして出場して。
 空に浮いたっていうことにひたすら感動して、前に進む楽しさっていうのを教えてもらって。
 本当に飛行機をつくってるのね。って顧問の私は思い知らされたというか。」
まっすぐに見つめる部員のみんなのきらきらした瞳。それから、それと良く似た親御さんたちの優しい目。
優しくて、きらきらしていて、うらやましかった。
真面目なことを、頭半分でしゃべりながら、思い出してしまった。
あの頃の畑も、同じような目をしていた。
優しくて、きらきらしていて、純粋に。そういうのがすこしだけ、懐かしくて。そういうのが、胸の中をかき乱していく。
この3年間、アイツはまた、どこをどうしてるのかわかんない。『ちょっと、世界を見に行って来る』なんてバカなことを言い残して。
丁寧に言葉を選びながら、話していて、泣きそうになりそうな自分の心に、丁寧にフタをしめるように、押さえ込むように、言葉を出すことに集中しながら、やり過ごす。
亜希子は続ける。
「第4回目の大会は、二人乗りの機体でチャレンジして。
 二人で乗るという、無茶にも思える出来事を、目の前で成し遂げて。
 洞爺湖の壁も上手に乗り越えて、制限区間がまだ、2.8キロだったですから、目一杯遠くまで飛んで行って。
 あの日の慶太くんの言葉が忘れられませんよね、
 ――来年は、絶対戻ってくるからな――って。」
化粧崩れを心配してるバカな自分と戦いながら、だけど、言葉が出てこなくなって、涙があふれてくる。
バカなアタシは、この3年間ずっと音信不通のままのハタケを、不用意に、思い出してしまった。
本当に、戻ってくるんだろうか。それとも、もう二度と、逢えないのだろうか。
空ちゃんが、席から立って近づいて、ハンカチを差し出してくれた。
話したいことはたくさんあって、応援してくれたみんなに伝えたい思いもたくさんあって。
なのに、感情が邪魔をする。どうして、涙がでるんだろう。
 ――来年は、絶対戻ってくるからな――なんて、畑はひとことも言わなかったのに。
なのに、思い出が邪魔をする。
今は、顧問の鈴木亜希子。その立場で伝えなきゃいけない。
「だけど、がんばったんです。みんなあきらめなかった。
 あきらめられないですよ、ねぇ?みんな今日みたいな気分を知ってますから。
 私は、とてもシアワセです。この気持ちを、一緒に味わうことができて」
会場から拍手をいただいた。
応援していただけたこと、こどもたちを見守ってくださったこと、そういうことすべての感謝を伝えたいのは私たちの方なのに。
亜希子は涙を拭って、続けた。
「このサークルは、部長の空ちゃんの願いから始まっています。
 ――私もチャレンジしたい――そうやって、空ちゃんが言いました。
 今日から、ちょうど、4年前の夏の終わりに、空ちゃんが。
 けど実は、大会には、第1回から、道南大学の学生が出場してるんです。
 ひとりの男でした。
 バカみたいな話ですけど、大会のチラシでつくった紙ヒコーキを両手に持って、飛び込み台から、走っていってジャーンプ。どぼーん。って。
 第2回は、見よう見まねでこしらえて、物干し竿にガムテープで羽を止めて。それでも、飛行機って言い張って。
 そこからスタートしてるんです。
 だから、今日の記録がどれだけすごいか。
 私は誇りに思います。
 みんな、ありがとう。みんな、おめでとう!顧問にしてくれて、私にも手伝わせてくれてありがとうございます!以上です」
亜希子は頭を下げた。
畑なんて、みんなにはかないっこないのだ。どれだけ競争をしても、今日のみんなには勝てやしないのだ。
アタシには、みんながいる。顧問で居られるのだから、アタシは幸せなんだ。アイツがいなくても、アタシは。
拍手をもらって安心した。
伝えられた。今日は特別な日だから。
4年生のふたりが卒業する。このサークルで、二度目の世代交代。
今度の世代交代は、ちゃんと、仲間のいる場所で、保護者のいる場所で。
こんなにも立派な場所で、ちゃんと引き継いであげられる。
亜希子が頭を上げた瞬間。
磯野駆が席から立ち上がり、よく通るその声で、マイク無しで言った。
「今日、応援に駆けつけてくれました。僕たちの先輩です!」
拍手が響く。
入り口のドアが開いて、男が現れた。――畑俊彦。
亜希子は信じられずに手に持っていたマイクを落とした。
静かに歩いてきた畑は冷静に、落ちたマイクを拾うと、話始めた。
「あ、あ、えー、ご紹介に預かりました、畑俊彦です。はじめまして。
 記録達成おめでとうございます。
 僕はサークルというものをつくれませんでした、こんなにもすばらしいチームをつくってくれたのは、森下空さんです。僕は、彼女にかなわない。みなさん、部長に、もう一度、拍手を」
会場に再び拍手が広がる。
畑は続ける。
「僕がはじめて作った記録は、30センチでした。
 第2回大会のことです。ホント、こんなもんです。飛び込み台から、ストーンって、ただ、落ちただけですから。
 それを考えると、すばらしい記録です。僕にとっては考えられないくらい、すばらしい記録です」
畑はポロシャツにジーンズ。あの頃あった無精髭は無くなって、髪型もシンプルに清潔な感じ。
亜希子だけが取り残されていた。
畑が淡々と話をしている。表情豊かに、だけど、静かな語り口調で。それっぽいことを、意外と上手に。
「みなさん、おめでとう。」
ハタケのその言葉で、会場が拍手になった。
慶太の声が「ありがとうございました。僕らの先輩、畑俊彦さんでした」と報せた。
そうだ、やっぱり、この男が畑俊彦だったのだ。
亜希子は慶太に「慶太くん、ごめんね。ゆっくりごはん食べててもらって」と告げた。
慶太は頷いて、地声を張り上げて言った。
「それでは、ただいまから、毎年恒例の、カレー会です!」
その声に学生たちから歓声が上がった。
亜希子はハタケの腕を掴んで会場のドアをくぐると、廊下に出た。ひときわ静かな空間が広がっていた。
亜希子は立ち止まり、振り返りざまに畑の頬を思いっきりビンタした。
静かな廊下に、パンッ、と響く。
「いってぇ、ほっぺた痛いけぇ」
畑は頬を押さえる。それでも畑はにっこり微笑んだ。
「なにやってたのよ!今までどこで、どこほっつきあるいてたのよ!
 なによ、なんなのよ!いまさら、なに?いまさらひょっこりでてきて、なに語ってんのよ!」
亜希子は畑の胸ぐらを掴んだ。
「ふざけないで、何年いなかったかわかってんでしょ。
 なにやってたのよ、電話もメールも、手紙もよこさないで、生きてるか死んでるかもしらせないで、わかんないこっちの身にもなりなさいよ、
 もうオトナなんでしょ、なにいつまでもコドモみたいなことやってんのよ、
 バカにしないでよ、もう、バカなことばっかりしてないで、……かえってきなさいよ、……もう、いいかげんかえってきてよ。
 なに……心配ばっかりさせてんのよ……。
 アタシは……アタシは……待ってたんだから、ハタケ、なんとかいいなさいよ……」
亜希子は畑の胸に額を寄せた。
畑は亜希子の頭を優しく撫でて言った。
「ごめん、やっと、ちゃんと帰ってこれた」
何年ぶりだろうか、数えるのもイヤになる。
トラックを運転していたときは、孤独が好きだった。けれど、いつからだろう。孤独がつらくなったのは。
畑の部屋を離れるべきだったのだろうか。だけど、それができなかった。
ふたりで過ごした時間は短すぎた。
「……もう、なんなのよ、勝手……すぎるわよ……。……どうせ、約束だって……期待したアタシがバカみたいじゃない」
だけど、それでも、亜希子にとっての畑と過ごした時間は亜希子を変えていた。
孤独から、逃げたいと願っていた。
いつからだろう。畑の家に引っ越して、タバコをやめると決めた頃から変わり始めていたのかもしれない。
畑は呟くように言った。
「そのために帰ってきたんだ」
「仕事は?」
「洞爺湖で、杉本会長の旅館。お世話になることになった。経験を生かせるだろうって」
亜希子は畑を見上げた。
「北海道に、住むの?」
畑は北海道に住むと言った。仕事もこの近くで。
亜希子は深呼吸した。
ここ何年分かの怒りを、涙を、あふれさせた気がした。
けれど、どんな顔をしたらいいのかわからなかった。
亜希子はただ、畑の胸元に額をあずけて、目を閉じた。
「バカじゃないの」といえば、「バカでごめん」と言う。
たったそれだけのやりとりに、だけど、すんなりとおさまっていく穏やかな感覚は変わっていなかった。
「ちっとも変わってない」
「ごめん」
「……バカ。心配かけやがって、許さないから」
見上げた畑は、ほとんど変わっていないけれど、なんとなくちゃんと大人になっていた。
畑は真直ぐ亜希子を見つめて言った。
「亜希子、俺と、結婚してください」
くすぐったくなった。
待ち望んだ言葉。
「覚えてたんだ」
「これ言うのに、3年かかった」
嬉しくて、嬉しくて、くすぐったくて。
もっと早くしてほしかったけど、今日になったから、なってしまったから、こんなにも幸せなのかもしれない。
「……バカ」
なのに、素直になれない亜希子がそこにいた。アタシのほうこそ、ちっとも変わってない。
畑が亜希子をぎゅっと抱きしめた。
「あ、あのぉ、先生、」
慶太が顔を出した。
慶太に気づいて、亜希子と畑は少しだけ距離をとる。
慶太が言った。
「マイク……」
畑は気づいて、左手に持っていたマイクの電源を切った。
そのタイミングで会場の中から、ボツッというマイクのノイズが響いた。
慶太は告げた。
「それ、ずっと入ってたんで。」
亜希子が尋ねる。
「うそ、いつから?」
「えっと、……全部?」
慶太はマイクを受け取ると、「しつれいしましたー」と静かにドアを閉めた。
冷静になって、頬が熱くなる。
畑に怒鳴り散らしたことも、プロポーズされたことも、全部。
このあとどうやって会場に戻ったらいいのだろうか。
亜希子は言った。
「もう、どこにもお嫁にいけない」
畑は亜希子の頭を撫でた。
亜希子はそっと畑のシャツの裾を握った。
「俺じゃだめか?」
「アンタくらいしかもういないわよ、言わせないでよ。バカ」
畑が黙った。
確かに畑はそこにいて、体温も息づかいも伝わってくるのに、目を閉じると不安になる。
目を閉じては、不安になって目を開けて、畑の靴を、ジーンズを、シャツを、そして、頭を撫でてくれる掌の温度を感じる。
やっと、畑が帰ってきた。そばにいる。そのことが、自分にとってこんなにもかけがえのないものだと改めて思い知らされた。
なんとなく胸を打つ鼓動が不安定で、しかたない。
畑の声をちゃんと聴きたい。
亜希子はまっすぐに畑を見上げて言った。
「言うことはそれだけ?」
「ただいま。」
その言葉が、心を穏やかにさせる。
畑もう一度言った。笑顔で、少しだけ大人になって帰ってきた。もう、亜希子を置いてどこにも行かない。
「亜希子、ただいま」
亜希子は言った。心を込めて。
「ハタケ……おかえり。」


  −END−